主に音楽の話だった

主にど素人の音楽の話です。全部の文章に(ブーメラン)か(自戒を込めて)って脳内で付け足して読んでください

合唱きもちいいけどしんどいけどきもちいい話

酔っぱらいですが書きます。

 

前回、「己の欲によってではなく、全体の和音や音楽の流れから自分のパートと自分自身の役割を把握し、わきまえ、こなしていく。/そうしてより高次元の音楽に到達することで、合唱や合奏の真の楽しみが現れてくるような気がします。」というようなことを書きました。

もってまわった言い方をしましたが、要するに合唱はカラオケとは違うということです。合唱は、自分だけじゃないから楽しいのです。自分の歌声に酔いしれ、周りが酔いしれてくれることが楽しいのではなく、単に大声を出してストレス発散ができるから楽しいのでもありません。カラオケのような楽しみ方には、合唱の本当の楽しさはないと思います。

しかし、この真の楽しみに至るには結構長い道のりと、いくつかの厚い壁があります。それが合唱のしんどいところです。

 

関連ワード:

合唱、音感、合唱における訓練、アンサンブル、合唱の発声

 

合唱団体に初めて入った人は、まずはカラオケのように楽しい状態でもいいと思います。歌うこと、大声を出すことは端的に言って、おそらく生理的な「快」です。民謡なんかがどの国や文化でも歌い継がれてきた理由は、単純に気持ちがいいからだと思います。

 

●音程

ところが合唱を始めると、さっそく最初にぶつかるのが「音を取る」ことですね。楽器によっても違いますが、多くの楽器は正しい場所を押さえたり、正しい場所を叩いたりすれば、決まった「音程」が出る仕組みになっています。声にはそれがありません(細かいことを言えば弦楽器やトロンボーンなんかは音程の決定という点では声に似ている気がしますし、ピッチの話になってくるともっとややこしいのですが、それはとりあえずおいておくことにします)。

ピアノで鍵穴近くの鍵盤を叩くと「レ」か「ミ」辺りが鳴る気がします。「ド」の鍵盤を叩けば必ず「ド」の音が出ます。トランペットを開放で吹けばB管ならたいていはBが出ます。声にはそれがありません。「ド」の音で歌って、と言われて即座に「ド」の音を出せるのは、いわゆる音感がある人です(それも絶対音感、固定ドというやつです)。音の高さや幅を決めるのは自分の身体ですし、その仕組みは外からは見えません。自分でも体の中の、声帯や肺や、そのほかの筋肉がどう動いているかなんて見えませんし、訓練を経た人でなければ自分の身体のことなのに全く把握できません。要するに、何度も練習を重ねて、「正しい音、幅を出している感覚」を身体で覚えていくしかないのです。これは絶対にしろ相対にしろ、「音感」がない人にとっては大変時間がかかり、難しいことです。

その上、楽器と違う点は、自分の身体が楽器である以上、「歌う」ということと「聴く」ことを同時に求められることです。正しい音程を狙って「歌う」ことと、自分自身や周囲の音を「聴く」ことを同時に行わなければなりません。歌っている声は、内耳を伝わっても聴こえてきます。いわゆる骨伝導(歌っている振動が頭蓋骨に伝わって、直接聴覚神経に伝わっていくもの)です。この辺はまた面倒なので省きます。例えば単に、ピアノで弾かれた旋律を真似して歌うだけでも、ピアノを「聴く」、音の高さをイメージして「歌う」こと、自分の声を(骨伝導込みで)「聴く」ことを要求されているのです。音取りをしていると、単純な作業のように思われるかもしれませんが、単なる「音取り」であっても実際私たちの身体は複数のことを同時に処理しているのです。しかもそのどれもが、訓練を必要とするものなのです。音を正しく聴きとることも、音程をイメージ通り外に出す(歌う)ことも、それぞれ別の科目として存在しているくらいです。

「音を取る」ことは必要最低限の条件に思えますが、実はとっても大変なことなのです。こればっかりは、練習して感覚的に身に付けていくことしかできません。かくいう私も平均律人間で、最近448hz基準だなってようやく自覚したところです。大問題。

 

●聴くこと

次のステップとして、「周りを聴く」というのはよく言われることです。まぁ難しい。

私も合唱始めた頃は「何言ってんだバカかよ」って感じでした。ちなみに合唱始めた頃はアルトでした。ハモるの楽しいよね。特にいわゆる主旋律以外のパートは、自分たちの音程を守るのに必死になりがちです。他のパートなんか聴いてたらつられますよね。分かります。

しかしバラバラでは合唱になりません。まずは楽譜と自分の歌声だけに狭まっている視野をなんとなく周りに開いてみて、フレーズの入りや歌詞などだけでも揃えていくのがいいと思います。縦の線を合わせるというやつです。

ハーモニーを味わう訓練は、かなり難しいです。超難しい。このブログは別に合唱指導者向けに書いているわけでも、合唱参加者向けに指導・啓発のために書いているわけでもないので、かなり理想論を展開しますが、ある程度のレベルの少人数アンサンブルがハーモニーを聴く練習としては最高の環境だと思います。自分の声に責任を持って歌っている個人の集まりといいますか。大規模な、有象無象の集まりのような合唱団では、音の洪水で、繊細な音の世界に入っていくには適当ではないと思います。大人数だと自分の周りに居るパートの声しか聴こえませんし。

結論からいえば、日本では環境的な面から「聴く」訓練は難しいのではと思っています。アマチュアが入れる合唱団体は、大人数の団体が多いですから。演奏する曲もヘンデルベートーヴェンのような大曲が扱われがちです。敷居が低いということは、様々な人が参加するということですから、合唱の経験が長い人も短い人も、上手い人も初心者も、平等に楽しめなければという点で、大人数による、大曲を扱う合唱団になりがちです(昔はプロの領域だった声楽曲や管弦楽ですが、合唱や音楽活動が市民一般に開かれていく中で、音楽の規模が大きくなっていった経緯は歴史の教科書に譲ることにします)。本当はもっとアンサンブルを楽しめる規模の合唱団で、敷居が高くないものが増えればと思うのですが……ちょっとマニアックな分野になりますから、なかなかありませんね(将来作りたいなぁとぼんやり思ったりしますが、運営面がちゃんとできる自信がない限りはやりたくありません)。

 

●「良い声は一つ」とか建て前もたいがいにしろ

ちょっと話が変わりますので、別記事にしようかなと思ったのですが……。

「良い声は一つ」という声楽の先生は結構いる気がします。言いたいことは分かるような気もします。でもそれって「建て前」ですよね。

ベルカントの話をしているならまだ分かりますが、合唱についてそんなことを言っているなら日本の合唱界についてあまりにも見識が狭い。かの有名な合唱コンクールでさえいろいろな発声の方向があり、審査員の好みもあったはず。上手い合唱団でも指導者あるいはボイストレーナーの好みによっていろいろな発声があります。

「山登りするにはいろいろな道がある」というのは、ある目標に辿り付くためにはいろいろな方法があることの例えですが(一般に言うのかな……?)、少なくとも歌・合唱という領域において、

山(目指す声)は、たくさんあります。

目指す地点(レベル)も、たくさんあります

ルート(アプローチの方法)も、たくさんあります。

それをどう教えてもらうか(指導)も、たくさんあります。

……これがたいへん面倒くさい。「上手い」人がたくさんいる合唱団でも、それぞれ立っている頂上が違えば全体としてはバラバラです。合唱が一つの団体としてまとまりをもって音楽を作るために、目標の山を定めることは必要なことだと思っています。

この例えに関連して。歌を始めたばかりの人、まだ自分にとってのルートが確立されていない人が、むやみやたらにいろいろな人にアドバイスをもらうのも良くないと思っています。迷子になってしまうからです。まずは自分がついた先生や、合唱の指導者が目標にしている「山」の「頂上」を目指して、その先生の「教え方」で教えられた「ルート」を辿っていくのが、一番迷わずに済む方法だと思います。だんだん自分の「ルート」がはっきりしてきて、目指す「頂上」が見えてきたなら、他の人のアドバイスを聴いて、自分にとってより分かりやすい「教え方」で「頂上」を目指すのもいいかもしれません。

さらに踏み込んで言えば、「教え方」が分かりやすい人についていくのが本当は理想です。鼻から深く息を吸うだけでも、「息を吸った時に鼻の奥が冷たくなる」とか「いい匂いを嗅ぐように」とかいろいろな例えがあります。身体の図を見せて具体的に筋肉がどうこうという先生も居れば、イメージで説明する先生も居ます。「この先生のような声になりたい」、そして「教え方が自分にとって理解しやすい」先生が見つかるといいですね……。これも自分にとって目下しんどい。ちょっとため息。

 

●しんどいけど、楽しい

歌う時は、自分の身体が鳴っています。そして他の人とうまく響き合った時に、音楽の中に自分の声と身体が溶けていくような感覚を得られるのは歌でこそだと思っています。まさに水を得た魚のように、和音の中を自由に泳ぐような感覚は、一度感じたらそうそう忘れられないものです。また、あの音の海に戻りたいです。実際は、金づちですけどね。